湖は静かだった。
山を下りて三日目、森を抜けると、目の前に大きな湖が広がっていた。 風もなく、水面は完璧な鏡となって空を映している。雲がゆっくりと水の中を流れ、もう一つの空がそこにあった。
少年はその畔に座り、水に映る自分の顔を見た。
旅を始めてから、初めてじっくりと自分を見た。 痩せた頬、日に焼けた肌、伸びた髪。でも一番変わったのは、瞳に宿る光だった。死んだような目をしていた昔の自分は、もういない。
でも、自分が何者なのかは分からない。
Have、Get、Can、Hope、Do、Journey——みんなに出会い、多くを学んだ。 でも、自分自身については何も知らない。名前もない、過去も曖昧、未来も見えない。
水面が小さく揺れ、映る顔が歪む。それが今の自分を表しているようだった。
水際の石の上に、小さな人形が置かれていた。 手鏡を抱え、じっと前を見つめている。人形自身が、鏡の中の自分を見ているような姿勢。
「……私の名前を呼んで」
静かな声が水面を渡ってきた。湖の静寂と同じような、深い静けさを持った声。
「Self」
やわらかな光に包まれ、少女が現れた。 長い黒髪、落ち着いた佇まい。手にした鏡を、そっと膝の上に置く。彼女の瞳もまた、湖のように深く静かだった。
「迷っているのね」
問いかけというより、確認するような口調。
少年は頷いた。言葉にできない何かが、胸の奥でもやもやしている。
Selfは何も言わず、隣に座った。 二人で湖を見つめる。長い沈黙が流れたが、不思議と心地よかった。急かされない時間。
やがて少年が小石を拾い、水面に投げた。 波紋が広がり、映っていた景色が揺れる。空も雲も、自分の顔も、すべてが崩れて、また元に戻る。
「波紋は消えるけど」
Selfが静かに言った。
「石を投げたことは、消えない。水は覚えている」
彼女も石を手に取ったが、投げずにじっと見つめた。
「あなたという人は、これまでの出会いでできている」
石を水面にそっと置く。沈んでいく石を、二人で見守った。
「呼んだ声、応えてくれた人たち。Have の『持つ』、Get の『たどり着く』、Can の『できる』、Hope の『希望』、Do の『行動』、Journey の『歩き続ける』」
彼女は指折り数えた。
「全部があなたの中に積み重なって、今のあなたを作っている。名前がなくても、あなたはあなた」
風が吹き、湖面が揺れる。 でも、やがてまた静かになる。
少年は自分の手を見つめた。最初は何も持てなかった手。今は道具を持ち、石を投げ、岩を登ることができる手。
「答えを急がなくていい」
Selfは立ち上がった。
「ただ、ここにいるだけで充分。存在することが、すでに意味」
消える前に、彼女は振り返って微笑んだ。 その笑顔も、湖のように静かで、深かった。
「いつか分かる。あなたが誰なのか。でも、それは誰かに教えられるものじゃない。自分で見つけるもの」
一人になっても、少年はしばらく湖畔に座っていた。
水面に映る自分を見つめる。 揺れても、歪んでも、そこに自分がいる。
Selfの言葉を、ゆっくりと心に沈めながら、少年は思った。 自分は、自分でいい。 今は、それでいい。