第一部 プロローグ: Name – Say my name

少年は疲れていた。

足の裏は破れ、血が靴下に染み込んでいる。空腹はいつものことだったが、全身を覆う疲労はすでに限界に近かった。喉は乾き切り、唇はひび割れて小さな傷からにじむ血の味が口に広がっている。

森の中で立ち止まり、樹皮に手をついた。ざらついた感触が掌に食い込む。視界が揺れ、木々が二重に見えては一つに戻る。空腹の果てで、世界が違って見え始めている。木の幹の溝に生えた苔が、妙に鮮明に見えた。

もう一歩も進めない——そう思った瞬間、風が変わった。

湿った木と土の匂いに混じって、かすかに油の匂いがする。人工物の匂い。建物がある証だった。

最後の力を振り絞り、匂いの方向へ足を引きずる。茂みを抜け、蔦を払い、ついに古びた倉庫が姿を現した。扉は朽ちかけて半開きになっている。

中に入ると、埃が舞い上がった。薄暗い中で、木箱や棚がぼんやりと見える。そして——

木箱の上に、小さな人形が座っていた。

美しいブロンドの髪、繊細な顔立ち、淡いブルーのドレス。埃をかぶりながらも、まるで誰かを待ち続けているかのような姿勢で。

少年が一歩近づいた瞬間、声が心の奥に響いた。

「……わたしの名前を呼んで」

幻聴かもしれない。だが、その声には不思議な温かさがあった。生まれて初めて、自分だけに向けられた言葉のような。

「……Name?」

言葉が落ちた瞬間、倉庫全体が震えるような光に包まれた。人形の周りに無数の光の粒子が舞い踊り、まばゆい輝きが少年の視界を覆う。光は温かく、疲れ果てた身体を内側から満たしていく。

やがて光が収まると、そこに少女が立っていた。 黄金の髪が肩に流れ、淡いブルーのドレスが揺れている。

少女は自分の手をそっと見つめ、指を一本ずつ動かしてみた。

「……動く」

指先が微かに震え、裾が音もなく揺れた。 ゆっくりと顔を上げる。

「あなたが、呼んでくれたのね」

少年は言葉を失い、ただ見つめるしかなかった。

Nameは静かに近づき、そっと少年の手に触れた。確かな温もりが伝わってくる。生きている証だった。少年の手は泥と血で汚れていたが、彼女は気にする様子もなかった。

「お腹……すいてるでしょう?」

彼女は倉庫の奥へ歩き、棚を確かめた。古い木の匂いと埃が舞う中、何かを探している。

「ここに、少しだけど……」

水差しと布包みを両手で大切そうに運んでくる。水差しの表面には蜘蛛の巣がかかっていたが、中の水は澄んでいた。

「どうぞ」

少年が水を飲むと、渇いた喉に冷たさが染み渡る。命が戻ってくるような感覚だった。Nameは少し離れた場所に座り、静かに見守った。乾パンをかじる音を聞きながら、そっと隣に座って待っていてくれた。

食べ終わると、Nameは膝に手を置いて、窓の外を見つめた。割れた窓から差し込む月光が、彼女の横顔を照らしている。

「この世界には、わたしみたいな子がいるの。みんな、名前を呼んでもらうのを待ってる」

独り言のような、祈りのような声だった。

「あなたの声……届いたの。ずっと暗かった場所に、光が差したみたいに」

彼女は振り返り、かすかに微笑んだ。微笑みの奥に、言葉にならない長い時間が揺れた。

その夜、少年が横になると、Nameは古い毛布を見つけてきて、音を立てないようにそっとかけてくれた。毛布は所々破れていたが、久しぶりの温もりだった。

翌朝目覚めると、Nameの姿はなかった。

でも、彼女がいた場所には、小さな野の花が一輪置かれていた。 朝露に濡れて、静かに光っている。

少年はその花を大切に胸ポケットにしまった。 倉庫の扉を押し開けると、朝の光が世界を新しく照らしていた。

名前を探す旅が、始まった。

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